チェンライ暮らし

Edited from CGIboy


 まだ、「BLOG」などというものが普及していなかったころ、日記を記録するのにお世話になった「CGIboy」ですが、
「BLOG」が広まるにつれて、廃止されることになってしまいました。幸い、廃止の予告を受けてバックアップをとって
あったため、それを元に、見た目だけでも「CGIboy」時代そのままに、復元し公開保存することにいたしました。
なお、復元時に気がついた誤字脱字は訂正し、一部段落などの追加や「補記」として説明を追加したものもあります。


ホームページ 管理者へメール

2005年04月 INDEX

2005/04/01 女性たちだけで、池の魚とり
2005/04/02 風邪ひく
2005/04/03 一日中、ゴロゴロ
2005/04/04 チェンライへ
2005/04/05 隣村で、4つの葬式
2005/04/06 久しぶりの青空
2005/04/07 新しい寺ができるかもしれない!
2005/04/08 昨日の高僧、パーン郡へ「拉致」される
2005/04/09 芝刈り
2005/04/10 ノンカンの母親、危篤
2005/04/11 ノンカンの母親見舞う
2005/04/12 車、修理完了
2005/04/13 新年の行事はじまる
2005/04/14 粽(ちまき)を作る日
2005/04/15 三が日の最後の日
2005/04/16 心の恋人
2005/04/17 総出で、トゥーン郡の伯父のところへ
2005/04/18 パソコン修復につき合う
2005/04/19 「陽はまた昇る」
2005/04/20 ノンカンのお母さん、逝っちゃった!
2005/04/21 ウタラディットへのミニトラベル
2005/04/22 ビザ延長申請
2005/04/23 「キン」、散髪
2005/04/24 通夜に出席
2005/04/25 暑い暑い、みんな暑い!
2005/04/26 チャムトーンの柵のネット補修
2005/04/27 棚、3個目完成
2005/04/28 履物の整理
2005/04/29 部屋の清掃
2005/04/30 養魚池の魚とり
2005年4月の日記

sun

mon

tue

wed

thu

fri

sat

-
12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930


女性たちだけで、池の魚とり 2005年04月01日
 午前中、坊さんのパソコンの調整手伝い。
パソコンで歌を聴いている最中に、停電し、「WINAMP」のプレイリストが、消えちゃったとか。プレイリストに再セットして、OK。ほんとは、坊さん、歌など聴いて楽しんじゃいけないんだよ。「歌舞音曲」はご法度なんだから。
 ついでに、注文に応じて、WINDOWSセット時に店の人が入れておいてくれた、ルクトゥンなど500曲ほど、CDに焼く。再生装置で聴くんだそうだ。MP3だと1枚のCDに200曲くらい入る。便利だ。
 午後から、今晩のおかずにするためと、水遊びをかねて、女性陣だけで魚とり。
小生は谷から引いている湧き水の配管の調整。ついでに、上の池は、近いうちに干しあげるので、エスロンのパイプを使って、サイフォン式の排水をする。1インチもない細いパイプだけれど、2,3日もすれば、水はかなり引くはずだが、はたして・・・。
 

風邪ひく 2005年04月02日
 朝から体調不良。「へそ」出して寝たからか、風邪引いたようだ。今のところ食欲はあるが、だるくて頭痛もする。
 天気予報では、明日あたり雨になりそうなので、チャムトーンの「リンチー」施肥。クイタム、ピシー、タン、アイ・ラット(タンの兄貴)。1ヶ月ほど前から、予定したいたのだが、諸般の事情で遅くなってしまった。すでに、リンチーの実は、小指の先ほどの大きさになっていて、ちょっと遅いのかも知れない。
 一時的な工事で灌漑用水の水がひいたので、魚とり。よせばいいのに、水に入ったため、風邪、余計に具合悪くなる。鼻水も。体調不良で暑さがこたえる。すこし動いただけで、普段とちがう、いやな感じの汗をかく。冷や汗に近い。

一日中、ゴロゴロ 2005年04月03日
 風邪で体調悪く、一日中パソコンの前で過ごす。
半分、居眠りに近い。食欲もなく、昼、夜「バナナ」。
おりしも、インターネット上で、「バナナ」の効用が報じられていた。古いものほど、白血球の増加を促し、免疫力を高めるらしい。
 普通のバナナ(クオイ・ホーム)のほか、「クオイ・カイ(モンキー・バナナ)」、「クオイ・ナムワー(粉ふきバナナ)」を食べさせてもらう。「粉ふきバナナ」は、消化がよく体調が悪いときにはいいらしい。

チェンライへ 2005年04月04日
 宵の口から、今朝方まで、しとしと雨が降ったりやんだり。むし暑くて寝苦しかった。それでも、朝は気温20度しかない。
 ケサリンも風邪気味。朝から「ティッフィ(風邪薬)」のんでたようだ。
 今日は、ノンカン、進学先の学校への出校日。病み上がりの感じで、送っていけそうもなくタウィに頼んだが、留守にできない事情があるとかで、ダメとのこと。ケサリンは、かなりオカンムリで、「バス」で行くからいいなんて言っていたが、結局ちょっと無理して送っていくことにした。
 いっしょに進学する、ノンギエンの親子と先輩の向かいの娘ジンも同行。ケイは、おまけで連れて行く。サニーの後部座席に、大人5人はかなりきついと思うのだが、彼らは、平気の平左。
 学校で、前に申し込んであった制服など受け取る。ただそれだけのこと。進学者の確認の意味もあるのかもしれないが。5月1日にまた出校。
帰りに「メコー」で「ソーダ・カツオ」など購入。家に戻って、早速さばいて夕食用に。「中おち」など、猫に。喜んで食べる。「シン」は、タイに連れてこられて、もうじき4年になるのに、「川魚」は、調理してあっても食べない。海のものなら生でも喜んで食べる。もう、10歳になり、人間でいえば、50歳前後かと思うが、今のところ元気。長野で避妊手術をしてきたが、日本では、「男らしさ」を失なわさない手術らしく、いまだにメス猫の要求にこたえている。はた目には、ちょっと気の毒。3匹のメス猫が入れ替わり立ち代りで、「もう、いい加減にしてよ」といった態度の時も見かけられるが・・・。

隣村で、4つの葬式 2005年04月05日
 今日も一日ぐずついた天気。降ったりやんだり。
義父が隣村の親戚の葬式に参列したため、みんなでチャムトーンで留守番。祖父方の親戚で、苗字はカムグアンである。近隣の村を合わせるとカムグアン姓は、数十軒あるらしい。タイ人が苗字を持つようになったのは、1916年(日本の大正時代)に「苗字制定法」ができてからだから、まだ90年にもなってない。このあたりでは、まだ、80年くらいしかたっていないらしい。タイでは、日本の「鈴木」や「佐藤」などのように、何のゆかりもないものが全国的に同じ姓を名のるということはなく、同姓であれば、20世紀初頭ぐらいからの親戚であることは間違いない。
 隣のメプーン村で、4つの葬式が重なったが、そのうち3人は、高齢者の病死らしく、たまたま偶然重なっただけだが、あとの一人は、20歳まえの若者で、「刀」で切られて死んだ。数日前のことだが、チャムトーンの灌漑堰に遊びに来ていて、酒の勢いで「ドイトゥン」のふもとにある「チン・ホー」の部落の若者といさかいになり、10数人の刀や銃など凶器を携えて、仕返しにやって来た連中に滅多切りにされたらしい。すぐに、メチャンの病院に運ばれたらしいが、すでに事切れていたとのこと。「チン・ホー」の若者、10人ほどが、警察に捕まったとのこと。
 「チン・ホー」というのは、タイの少数民族のひとつで、中国系の「回族」である。
「チン・ホー」は、国民党の下級兵士として、中国内戦時にタイ領にやってきて、国民党敗残後も、残留したのが始まりである。「ドイ・メサロン」の山の上には、国民党の上級将校にひきいられた「チン・ホー」たちの街ができている。「台湾」との関係は、今も続いているようだ。
「チン・ホー」は、かつて「アヘン」をあつかっていて財をなし、商才に長けていたこともあり、北タイ一体では、潮州、広東系の華僑とは別に、事業や商売で成功している人も多く、メチャンの街中などでは、半数くらいが「チン・ホー」の店である。「ドイトゥン」のふもとあたりには、何ヶ所かの「チン・ホー」部落があるが、これらは、内戦のときの難民部落である。チェンマイ県の北部にある、「ドイ・アンカーン」にも、「チン・ホー」の大きな部落があり、冷涼な気候ということもあって、「温帯性」の農業で成功している人も多いらしい。
 中央アジア系の「チン・ホー(回族)」の宗教は、「イスラム教」が多く、最近大きな政治問題になっている、最南部の「イスラム教徒」との関係も取りざたされている。

久しぶりの青空 2005年04月06日
 まぶしいほどの陽射し。むし暑いけど、気温はまだかなり低め。
今日は、現王朝「ラタナコシン朝」の創始者「チャクリー将軍」の記念日で休日。
休日であることを忘れていて、「日本米」買いに行ったら、精米所はお休み。「とろろ汁」はまたおあづけ。
 そろそろ、新年の行事「水掛け」が始まった。この気温でびしょぬれは、風邪引くよ。
明日、恒例の「メカム川」の水神様供養が行われるので、チャムトーンの灌漑堰付近では、おおぜいの水利組合員たちが準備でおおわらわ。「生け贄」の鶏、我が家から買っていった(?)。

新しい寺ができるかもしれない! 2005年04月07日
 例年の今頃に比べると、まだ、かなり気温は低めだが、湿度が高いので充分に暑い。
やっと、新年(ソンクラーン)の気分。
 今日は、メカム川の「水神様祭り」。去年より、人出は多かったようだが、奉納の舞に女性の相方がいなかった。2月の下院選挙で当選した「ラオーン女史」が主賓として出席していた。行事の内容は去年と同じで、聖水汲み、稚魚の放流などのあと、「ミラクルピラミッド」の下で、功徳を授かる儀式、さらには、子供たちの「伝統舞踊」の奉納などが行われた。以前にも書いたと思うが、この祭りは、「精霊信仰」、「ヒンズー教」、「仏教」などが混交した儀式であるようだ。 集まった人出、2000人弱。 (上の写真2枚)

 今日の一大ニュース。
山のお寺(ワット・ドイ・ナーン)の北隣、およそ、500mほど行ったあたりに、新しい「寺(ワット)」ができる可能性が高くなった。
 先日、ミャンマーより高僧(クルーバー・アチャーン)がやってきて、山の寺の北隣りの山の裏側にある鍾乳洞でお籠りをはじめ、高僧のご利益に預かろうと、昨日からたいへんな数の参拝者。あたりは、数年前から、たまに短期でやって来た高僧のために、すこしずつ整備されていたが、今年は、粗末ながらも「庫裏」や休憩所などもでき、洞窟に昇っていく道も整備されて、花壇などもできた。
 寺ができるのかもしれないというので、現代社会において、新しい寺がどのようにして出きていくのか見定めたいという気もあって、かみさんたちについて行って見た。
 石灰岩の崖下は、ついこの間までは、一面「リンチー」の果樹園だったところだが、すでにかなりの面積(1ヘクタール以上かも)、リンチーは切り倒されて、原初的な「伽藍」ができていた。集まっている人の数は、「水神様祭り」をはるかにしのぐほど。
 この高僧というのは、「メサイ郡バンダイ町」(わが町メカム町の東隣り)出身で、30年あまり前に、7歳で出家し、県内あちこちの寺を巡り歩いた後、10歳をすこし過ぎたころ、山の寺の脇の小さな洞窟で「お籠り」をしたことがある人らしい。その頃、かみさんたち、近所の子供たちが好奇心で、洞窟をのぞき見に行ったことがあるらしい。その後、いつの頃からかは定かではないが、ビルマ(ミャンマー)に入り、大きなお寺に入ったらしい。ミャンマーのどのあたりにある寺なのかは、今のところ不明だが、努力の甲斐あって、高僧の位、クルーバーを取得し、ミャンマー国内でも。非常に多くの崇拝者があるようだ。連日のように、高僧に徳分を与えてもらおうと、長蛇の列ができるらしい。
 今日も、3貼りのテントの下に、100人近い老若男女が座って、徳をいただくのを待っていた。「徳」というのは、高僧の肖像入りのメダルのお守り。
 パーン郡(チェンライ市の南で、我が家からは、100kmほど離れた遠く)からの信奉者もおおぜい来ているらしい。この高僧が、かつてパーン郡の洞窟でも修行していたことがあるらしいのだが、今では、高僧の「奪い合い」ということになっているらしい。おいらの町に、是非、と言うことらしい。最終的には、どこに落ち着くのかはわからないが、この場所に新しい寺ができることになるのかもしれない。ちょっと飛躍があるが、宇宙のかなたに「新星」を発見とか、畑の真ん中にできた「昭和新山」を見つけたような妙な気分になった。今後の展開を、見つめていくつもり。写真3枚目は、修行場所の洞窟への上り口から撮ったもの。

昨日の高僧、パーン郡へ「拉致」される 2005年04月08日
 早朝、タクバツ(托鉢)に現れる高僧の「尊顔」を拝し奉るべく、かみさんたち例の所に出かけたが、さんざん待たされて10時頃洞窟から出てこられて、昨日を上回るほどの多くの信奉者に「福徳」を授けた後、パーン郡の信奉者たちに連れられて立ち去っていったとのこと。当地の信奉者たちは、大いに「落胆」したらしい。なにしろ、「所帯道具」すべて車に積み込んで、出て行ったとのこと。
 くだんの高僧だが、ミャンマーの「シャン州」(タイ・ヤイの自治州)にかなり大きな寺を持っているらしいが、昨今、ミャンマー中央政府(軍制)とシャン州との折り合いが悪く、小競り合いが続いているらしいのだが、つい先だって、シャン州の代表者が軍に拘束されて、高僧自身も危険を感じて弟子の僧侶たちともども、寺をあげて避難してきたもののようだ。ミャンマーのタイ・ヤイの間でも絶大な信奉を受けていたらしい。

芝刈り 2005年04月09日
 芝刈り機の刃を研ぎなおして、あちこち調整した後、芝刈り。炎天下でつらいが、程よく雨があったせいで、伸びるのが早い。日本芝は、ちょっと手を抜くと、暴れだす。あんまり、まめには手入れしてないけど、植えた手前ほっておくわけにも行かない。

 写真は、今年生まれの我が家の子猫。「イ・フォイ」と「イ・パイ(イ・フォイの子)」の生んだ猫。親子で、共同子育て中。我が家の雄猫は、すべて避妊手術しているのに、困ったことだ。全部合わせると、現在22匹。みんな名前持ちらしいが、これだけ多いととても覚えられそうにない。

ノンカンの母親、危篤 2005年04月10日
 夕方、ノンカンの母方の祖父から電話があった。ノンカンの母親(アカ名:アポー、タイ名:ワッサナ、33歳くらい)が、危篤だそうだ。明日、ノンカンをつれて山へ行くことにする。1月の中旬に見舞いに行ったときは、つらそうではあったが、寝たきりではなく、家の外で話ができた。腰が痛いのと、食欲がないのがつらいといっていたが・・・。あれからそろそろ3ヶ月になる。やっぱり奇跡は起こらなかったようだ。ノンカンはこの13日が16才の誕生日である。
 ソンカーンの「水掛け」もいよいよ、本格的に。水の掛け合いで、ずぶぬれになっても大丈夫なほどに、暑くなってきた。
 

ノンカンの母親見舞う 2005年04月11日
 ノンカンの母親のお見舞いに行く。
 1月中旬に行ったときは、「サマーキー・カオ村(アカ族の村)」の実家でに身を寄せていた。そちらに行くと、家族ともども留守だった。いやな予感がした。昨日の電話の相手先の番号が携帯に残っていたので、ケサリンがそちらに電話すると、相手は近くの保育園の先生だった。授業中なのに、抜け出してきて、ノンカンの母親が自分の家に戻っていることなど教えてもらえた。母親の家は、そこからさらに3kmほど山道を西へ行ったラフ族の村。一人で留守番をしていた甥っ子に案内してもらい、訪ねていく。ダラダラと狭い坂道を下っていくと、やがて目的のラフ族の部落が見えてきた。家は集落の入り口に近いところにあった。ラフ族というのは、もっとも遅く北タイにやって来た山岳民族で、耕地などに恵まれていないことと男たちがあまり働かないことなどから、貧しい家が多い。それでも最近のタイの経済成長の恩恵を受けてか、結構立派な家に住んでいるものも多くなった。だが、ノンカンの母親の家は、このあたりでは、一段と小さな、昔ながらの粗末な小屋だった。(写真)長患いの病人を抱えていては、家の新築などできないのだろう。
 30才そこそこと思われる旦那が、外に出てた。母親は、ドアの直ぐ近くの簡易ベッド代わりの椅子に、もたれかかるようにして座っていた。さらにいっそう痩せてしまって、もう長くはないなという感じがした。話ができるだけでも、連絡があって直ぐにやってきてよかったと思う。「死」が近いことを知っていて、あれこれと泣きながら話されるのを聞くのは、たまらないことだった。2才の頃から、離れ離れに住んできた、ノンカンも、ずっと母親の手を握ったまま、泣いてばかりいた。
 前回訪ねていったあと、体調がいっそうに悪くなり、チェンライ中央病院に入院していて、最近戻ってきたばかりとのことだった。病院では、痛み止めの注射を打つだけだとぼやいていた。なんでも医師の話だと、「癌」の方は別段悪くはなってないが、腎臓がすっかり機能しなくなっていて、手の施しようがないとのこと。排尿が不可能で、腹水がたまって、おなかも妊婦のように大きくなってしまっている。
 ノンカンには父親違いの妹と弟がいる。上の妹は10歳で、目鼻立ちはノンカンによく似ている。幼いながらも、看病には、手馴れたようすが見えて、さすがに女の子だなと感心する。山の子供は、恥ずかしがりやだが、素直でいい。
 ノンカンは、2、3日母親の看病をすることになった。あらかじめ着替えなどの準備はしてきた。一晩でも、二晩でも、親子水入らずの生活ができればいい。

 行きの山道にさしかかった頃から車の調子が悪くなり、目的地に到着する前に、ラジエーターが「沸騰」した。しばらく休ませたので、大丈夫かと思ったが、帰り道ではすぐに沸騰しそうになった。山中のこととて心配し、タウィに連絡して、修理工場への手配を頼んだりした。
 ラジエーターのファンの調子がおかしいらしく、停車して調べると、エアコンを止めると、エンジンはかなり熱いのにファンが止まってしまうということがわかり、エアコンをつけたまま、坂道を、だましだまし下って、10kmあまり走って、修理工場にたどりつく。
 ファンを動かす温度センサーの不具合らしい。車はそのまま預けてタウィの車で帰宅。新年休みに入っていて、交換部品の手配は不可能らしく、修理には時間がかかりそう。休み明けまで、サニーは使えないことを覚悟した方がよさそう。

 夕方から、雷でたびたび瞬停。だが雨の中心はそれてしまったらしく、ほとんど降らない。

車、修理完了 2005年04月12日
 何のことはない、ラジエーターの蓋(ラジエータ・バルブ)の交換だけでOK。
ちょっと、調べてみてわかったことだが、この蓋が実はかなり重要な役割をしていたのだ。ラジエータの冷却液のサブタンクとあいまって、ラジエータ内の液の圧力を調節し放熱しやすいように、あるいは寒い時期エンジンの掛かりをよくするなどの働きをしているのだそうだ。恥ずかしながら、全く知らなかった。ただの蓋かと思っていた。この蓋についている弁で、普段は中の液が加圧されていて、沸点は120度くらいになっているらしい。そのため、外気との温度差が大きくなり放熱効率がよくなるのだそうだ。この弁に不具合が生じたり、パッキングのゴムが劣化したりすると、液は100度ほどで沸騰してしまうばかりか、放熱効率も悪くなり、オーバーヒートしやすくなるのだとのこと。できるだけまめに交換するほうがいいらしい。大体1年に1回くらい。そういえば、昨年、どこかの修理工場で交換したような気がする。そのとき、どうせただの蓋なんだから、安物でいいよっていったような気がする。安物だと間違いなく1年くらいで問題が起きるようだ。
 以上のようなこと、長い間、車を運転していても、車検の時にすべて整備工場任せにしていたので、全く知らなかった。
 ボラれたのか、それともすこし上質なものと取り替えたのかはわからないが、800バーツ以上だった。日本円で2000円あまり。以前取り替えたものは、半値ほどだったように記憶している。でも、とにかく、新年の間に車が使えるようになってよかった。

 いよいよ明日がソンクラーン。近所で、カーバイトの空砲が、ボーンボーンと鳴っている。水掛けも、パウダー入りのものも、あちこちで。車にかけられたパウダー入りの水は乾くと、真っ白い斑点になり、きれいだ。ソンクラーン明けの水掛け遊びが終るまで洗車はしないことに。

新年の行事はじまる 2005年04月13日
 ノンカンが戻ってきた。母親の実家の向かいの家の車で。(この家の奥さんは子供ができなくて、チェンライの女学生が生んだ子供を引き取って育てている)
 今日、ノンギエン小学校で「パパー」があり。その余興のイコー・ダンスを踊るため、昼前に帰ってきた。総勢10人で、ひとり欠けると、相棒のいなくなる踊り手が出てしまうので、それに合わせて戻ってきた。
 「パパー」というのは、乾期にしばしば行われる寄付を受けるための行事で、新年の始まる13日には毎年のように実施される。今回は、鼓笛隊の楽器を購入するための資金集めらしい。ノンギエン小学校の卒業生など、遠方からのお客さんに対して、ご馳走を振舞い、余興などもお見せするのがお返しのならわし。
 「バン・パヤーン」地区からも、「コータン(金のなる木)」をしつらえて、「モン・モン・モン」と鉦、太鼓のお囃子で学校まで行進。
 今日から、18日までは新年の行事が詰まっていて、遠出するわけには行かないが、19日頃からは、遠方の親戚などに、新年のあいさつまわり。親戚の高齢者に「ダム・フア」といって、頭に聖水をかけ、感謝する行事である。
 19日に「アンプー・トゥーン」の義母の兄を訪問する予定。20日には、再び、ノンカンの母親のお見舞い。11日にタウィとブオパンが行けなくて、ノンカンの母親から是非に会いたいとの要望があり、多分これが最後だろうから、都合をつけてみんなで出かけることにした。
 余談だが、ノンカンにもアカ族の名前がある。「ア・ボー」というのだが、2才のとき我が家に来てからは、誰も「ア・ボー」とは呼んだことはない。今では、アカ語も全くしゃべれないばかりか、理解もできない。今日、送ってもらった車では、同じくらいの年ごろの子供を含めて10人くらいのアカ族の子供たちもいっしょだったが、道中全く会話しなかったそうだ。アカ族の子供たちも学校では、タイの標準語を勉強しているのだから、標準語だったら通じるはずであるが、お互い、学校の外で標準語を話すのは気がひけたのかもしれない。
 夕方から、夜中にかけて、雷雨、降ったりやんだり。雨も風もほどほど。「きのこ」のためには、もう少し降らないと。

粽(ちまき)を作る日 2005年04月14日
今日は、「ホー・カノム」といって、バナナの若葉でくるんだ「ちまき」を作る日である。明日のお寺へのお供えの準備である。明日は日本風にいうと「施餓鬼供養」。
 さらには、明日の、夕方に村の鎮守さま(ポー・バーンとかチアオ・ティーとかいう)の行事があり、鎮守さまから部落中の家々、納屋や作業場所まで含めて「聖糸(サイシン)」を張り巡らして、「家内安全」の「信号」を伝えてもらう。そのための準備も今日行われた。また、このとき、そのあたりの湿地いたるところに生えている潅木の「トゲミモーザ」のふた股に分かれた枝を切ってきて、家族一人一人の腕の長さに調整して、鎮守様の「スチャータ」と呼ばれるミラクル・ピラミッドのところにおいておく。勝手な想像だが、もしかすると、これは昔の住民登録のような役目も果たしたのではないかと思われる。各家庭ごとに、一本の長いふた股の枝を一本、これは、どの家族であるかをあらわし、それに束ねて結び付けられている本数は、家族の人数である。子供のものは短いし、大人のものは長い。
 今日は、日頃、離れ離れになっている家族の集う日でもあるらしい。遠方から帰省してきた家族ともども、親の家に集まって夕食を共にするのだそうだ。
 新年の行事の準備さえ整えば、やはり正月ムード。一杯いただいて、「カラオケ」なのだろう、下手な歌が聞こえてくる。一方では、その一杯が原因で、喧嘩沙汰もたびたびで、お巡りさん、自警団(オー・ポー・ポーロー)の皆さんは、休み無しで警戒にあたっている。ご苦労さんなことです。

三が日の最後の日 2005年04月15日
 4月15日は、新年の三が日の最後の日で、朝から行事がかさなって、せわしない一日だった。
 村内に住む義父のゆかりの人たちが、朝から「年始詣で(ダム・フア)」で家族ずれでやってくる。午前中早いうちに来たものは、ほかにもまわるところがあるからと、ダムフアを済ませるとさっさと退散。昼近くなってやってきたものは、多分、義父のところが最後なのだろう、じっくり腰を落ち着けて、新年の宴会に合流。
 我が家の子供たちは、チャムトーンだと「水掛け」の相手がないので、家に戻って門前で、家の前を通る車やバイクに水掛け。夕方遅くまで、水遊びを楽しんでいた。
 新年は3連休だが、今年はその後、土、日で5連休。まだまだ、新年気分は続く。
 ノンギエンのポー・バーンのパパー。
 夜、ケサリンの従妹、ポンチェーの結婚式。「マット・ムー」といって、新郎新婦そろって、腕に聖糸を結んでもらうだけの、ごくごく略式。ケサリンのいとこの最後の独身者だが、日頃から愛想悪いのと、親の「ア・ヨート」(義父の末弟)が新郎のことを嫌っていて、まともな結婚式をしないとのことで、小生は欠席。このあたりの若者のうち、半数以上は、まともな結婚式をしないようだ。それぞれに理由はあるのだろうけれど・・・。若者たちの節操がなくなったことにもよるのかもしれないが、日本とちがって、はたがどうこう言う問題ではなく、別段困ることにもならないようだ。現在村内だけでも、14歳の女の子が、相手の男性の家に同居(同棲)してしまっているものが2人。すこしは恥ずかしいことなのかもしれないが、親たちも容認している。公然の結婚生活といってもいいくらい。2人とも就学中で、男の家から、学校へ通っている。そのうちの一人が、以前にも書いたが、ケサリンの甥のチャッキーの相手。彼の場合は、現在兵役中のため、チャッキーの留守のあいだ、両親とその女の子の3人で生活している。まともな日本人の親が、こんなことに遭遇したら、卒倒してしまうのではないかと思われるが、このあたりの「親子の関係」というのは、この程度のものである。親が子を、拘束することは非常に難しい。我が家の場合でも、同じようなことがありえないとはいえないので、覚悟しておく方が、ショックは少なくて済むのかも知れないが、自分たちには、それはできない。叱るときは、今での、「鉄拳」である。それも、だんだん効き目が無くなってきたような気はするが。

心の恋人 2005年04月16日
 昨日の夕方のことだが、新年で帰省中の「心の恋人」が訪ねて来てくれた。
 1歳前後の子供を抱いた色白の20代半ばの女性を、ノイが家に案内してきて、ケサリンの所在を尋ねた。見覚えのある顔立ちだが、それが誰であるか思い出せなかった。
ものの1,2分で向かいの家にいたケサリンのところへ。後から、さっきの女性は誰かと、ノイに聞きただして、近所の家の娘「ポンパーン」だということがわかったが、こちらから訪ねていくのには、もう、年をとりすぎている。身の程ということがある。
 とにかく、「ポンパーン」の方は、小生が元気でやっていることを充分確認できたはずである。彼女とは、15年ぶりくらいの再会である。ノイの1学年上のはずだから、20代といっても、30に近いほうかも。
 父親知らずで育った子供だが、とても賢く、日本風にいうと、小学生時代ずっと「クラス委員」。町の連合運動会の400m徒競争でダントツ1位だったことも。小学生時代、我が家にも時々遊びに来ていた。家が貧しく、父親がいないことなどで中学校に進学するかどうか迷っていたらしい。当時は、この村から中学校へ進学するものは、10人に一人もいないほどだったが、優秀な子供をこのまま社会に出してしまうのは惜しくて、それとなく学費などの援助を申し入れたが、断られた。「失恋」の苦さを味わった記憶がある。
 彼女は、小学校卒業後、程なくしてバンコクに住む身内を頼って上京してしまった。それ以来の再会である。風の便りで、バンコクでの生活ぶりなど、耳に入ってはいたが、母親や、この村に住む母親の兄弟姉妹たちとの折り合いが悪く、滅多に帰ってこなかった。
 新型のRV車で帰省してきていて、バンコクでの生活は、安定しているように見えた。
 今朝方、まだ暗いうちに、バンコクに戻っていったらしい。来年は、「心の恋人」本人から、詳しい身の上話など聞けるといいのだが・・・。

総出で、トゥーン郡の伯父のところへ 2005年04月17日
 朝から、アンプー・トゥーンの義母の兄のところへ、年始のあいさつ(ダム・フア)に出かける。招かざる人もおおぜい行くことになり、タウィの車満載で、危険なため、小生は遠慮して、ノイ夫婦とともに留守番。出掛けに2台で行くかどうかで、ケサリンとちょっとだけもめる。
 久しぶりに、うどんをうって、遅い昼食をとる。「万能粉 (All purpose)」だけで、うってみたが、やはり少々硬い。「万能粉」に「ケーキ用」の薄力粉を半分くらい混ぜるのが丁度いいかもしれない。
 長野から「長野マラソン」の情報が入る。小林君、惜しくも今年も完走ならず。あと、5kmあまりのところで、「バス」に拾われたらしい。悔しかっただろうね。来年があるさ。
 3月はじめに生まれた、二人目のお子さん(お嬢さん)の名前は「さくら」とつけたそうだ。奥さん(麻智子さん)の命名だそうだ。「小林さくら」、いい名前だ。ちょっとだけ「寅さん」の妹、倍賞千恵子のことが頭に浮かんだ。良妻賢母で兄思い。

 出かけていた連中、随分早くに戻ってきた。4時前だった。

パソコン修復につき合う 2005年04月18日
 近くに住むケサリンのいとこの「ミット」につき合ってパソコンの修復にのためチェンライへ。今年中学校に進学する息子の「ヌ」のためについ最近買ったパソコンが、立ち上がらなくなってしまった。ソンカーン休みの最中に、頼まれて調べてみたが、「WINDOWS Me」の立ち上げのときに使用するらしいルーチンが無いとのメッセージが出てBOOTできない。なんとなく「ウィルス」臭かったが、まだ買ったばかりでほとんど動かしてなく、心当たりはなさそう。とにかく、できるだけ早く買った店で見てもらうようにということで、休み明けそうそうに出かけた。普通、ソフトが壊れて、OSのセットしなおしだと1,2時間もあれば終るはずのところ、2時間ほどしていってみたが、終っていない。さらに2時間ほど待たされた後やっと終ったのだが、理由をたずねたところ、HDDが壊れていて交換したとのこと。いわゆる「初期トラブル」というヤツらしい。
 パソコンを店に預けている間に、バイクの車検。タイでも、新車から5年経過すると、車検が必要になったらしい。確か、バイクは、ペーパー車検だけだったと思うが、バイク事故が多いのでその対策と、盗難バイクの取り締まりをかねてのことと思われるが、お蔭で、「民間車検場」は「蔵」が立つ。今日行った、陸運局近くの「民間車検場」も、直ぐ裏に立派な建て屋を新築中だった。ともかく、「民間車検業」というのは、将来有望な、新しい産業で、かつては存在しなかったものである。
 ピックアップも検査のため何台もひっきりなしでやってきていたが、必ず「排気ガス」のチェックをしていた。検査は、それだけで、エンジン・ナンバーと車体ナンバーの刻印の写しを取るのが仕事のようである。
 不具合ヶ所が見つかったとしても、車検場では修理はしないのだが、このとなりに整備工場を作ってグルになってやったら、儲かるのだろうなと、品の無いことを想像したりした。

「陽はまた昇る」 2005年04月19日
 午前中、メチャンの銀行へ行き「残高証明」を頼んできた。今年もまた、ビザの更新手続きの時期になった。
 午後は、総出で、餃子の皮作り。(エスロン・パイプで作った)麺棒では、思うように丸く拡がらない。パスタ・マシンで薄く延ばして、手ごろな「じょうご」を使って型抜きしたものの方が見栄えがいいが、さて、いっぱしの餃子になってくれるか。夕食が楽しみ。
 先だって、近所に家のある日本人の方から、日本製の餃子の皮(チェンマイで購入したらしいのだが)をたくさんいただき、3回くらいに分けて餃子を作り、かみさんたち、すっかり餃子のとりこになってしまい、自家製の皮を試すことに。ケイが、「ティッチャイ(とりこ、くせになる)」で、催促したらしい。

 智子の旦那から、メール来る。やっとパソコンを手に入れて、使えるようになったらしい。
 「お元気ですか。本当に届くのでしょうか?」
届くのかどうか心配した、恐る恐るのメールだった。
直ぐに返信したが、何か不具合でもあるのか、「アドレス・エラー」で、届かなかったようだ。
 ともかく、昨年中は、わが日本の家族に、いろいろと不幸が襲いかかり、一時は意気消沈してしまったが、『陽はまた昇る』でいい方に向かっているらしく、うれしいかぎり。トッコさん(妹)が、一日も早く、再手術で、もとのようにトイレにいけるようになることを祈るばかり。

ノンカンのお母さん、逝っちゃった! 2005年04月20日
 タウィらに会いたいといわれて、20日に行くことを約束していたので、山へ出かけた。途中の村で、「ネー(イコーの知り合い)」に出くわし、彼からノンカンの母親がすでに亡くなっていて、17日に葬式を済ませていたことを聞いた。何か理由があって、知らせてこなかったのか、知らせる手段がなくて知らせてこなかったのかはわからないが、葬式に出席できなかったノンカンには気の毒。
 そのまま引き返すわけにも行かず、ともかく母親の家へ向かう。
母親の再婚相手は、さすがにしょげていた。彼とは「タイ語」も「カム・ムアン(北タイ語)」も全く通じないが、さいわいタイ語の通じる妹とカム・ムアンの通じる弟がいて、通訳を介して話ができた。なくなったのは16日の朝だそうだ。この間、お見舞いに行ったのが11日で、ノンカンが戻ってきたのが13日だから、それからわずか3日の命だったわけだ。やはり「腎臓」が全く働かなくなっていたのでは、永くは持たないとは思っていたが、その通りになってしまった。
 案内してもらって、埋葬されている墓場へ行く。3kmほど離れた、松林の中に、赤土を盛り上げた真新しい墓があった。松は数十年前に植林されたもののようだった。ほかにも10基近くの墓があったが、どれも比較的新しいもののようで、このあたりに「ムスー(ラフ族)」が住みつくようになって、そんなに年数は経過していないように思われた。たかだか、20年位かもしれない。
 ラフ族の大半は「キリスト教徒」になっていて、キリスト教式の葬儀をしたのだろうが、なにしろ山の中の「未開部落」で、ごく質素な葬式だったらしいことが墓場の様子で、想像できた。「ホエイ・プー・マイ」部落は、戸数32戸の小さな部落で、教会らしきものもあるようには見えなかった。仏式で泣きながら合掌するノンカンの姿が哀れだった。
 母親の「遺言」もあって、ノンカンの妹を引き取る話は、父親に断られた。ノンカンの妹は、姉といっしょに暮らせるので、その気だったようだが、下の弟が一人になってしまっては、かわいそうだというのが理由らしかった。中学は、「メカム中学」に進学させるので、中学生になってから、姉さんといっしょに暮らせと言い含めている風だった。3年先のことである。バイクで送ってもらえば、そんなに遠くは無いのでいつでも訪ねてくるように行って、帰ってきた。今回は忘れずに持っていったノンカンの古着をおいてきた。
 帰りに「サマー・キー・カオ村」の「ネー」の家に立ち寄る。そこで、持参した昼食をとる。89歳になる、おばあさんは相変わらず元気だった。膝の関節が痛いらしいが、杖も突かずに、「かくしゃく」としている。いまや、この村の最高齢者だそうだ。最近ずっと、医師の世話にもなっていないらしい。100歳まで、大丈夫という人もいるらしい。
「ネー」の下の子供は「保育園」、上の子供の一人は、近くの子供たちといっしょに「チェンセン」の工場でアルバイトとのこと。遠方なので、もちろん宿舎。「空き瓶」洗浄の仕事で、給料は月3000バーツだそうだ。
 帰りに、メチャンの銀行で、昨日頼んでおいた「残高証明書」を受け取る。近日中に、入管へ出かける予定。明日は、朝4時に家を出て「ウッタラディット」(「スコータイ」の北の隣接県)に坊さんのお供で、物見遊山をかねて、タウィの運転する車で、出かける予定。片道4時間はかかるので、入管へは行けない。それにしても、朝食(車中)用に「えびのから揚げ」が食べたいとは、坊さんもいい気なものだ。タウィが用意するはず。ほかにも、観光でお供する人がおおぜいいるらしい。

ウタラディットへのミニトラベル 2005年04月21日
 とにかく、疲れました。往復800km、15時間の日帰り旅行。
詳しいことは、明日にでも書き込みする予定。
「ミ(メス犬)」子犬4匹出産。とうとう自前で、できちゃいました。困ったことです。
 タウィの奥さん、テンの兄嫁亡くなる。食べ物に入っていた石を噛んでしまって、歯をいためたため病院で抜歯。その後意識不明のままなくなったそうです。「麻酔薬」が原因では? タイでは、たとえ医師のミスだったとしても、補償されることはまずありえません。

ビザ延長申請 2005年04月22日
 昼から、メサイの入管でビザ延長申請。
少々の「袖の下」で、書類の整理、申請書の作成すべてお願いしてしまった。当方は、所定のところにサインするだけ。快適。
 今回は、プリンターの故障で、書類のコピー、添付写真すべて、外部調達。その方がだいぶ安上がりで済みそう。
 そのプリンター、修理完了の連絡があり、チェンライへ引き取りに行く。
ついでに、子供たちの「携帯電話」購入予定だったが、二人ともあれこれ注文が多く、生意気なのでケサリンが頭にきて、結局、今日のところは買わず。子供の分際で、高額商品、あれこれわがまま言うな、だそうである。もっともな理屈。先々のことを考慮すると、いっそ、中古品の安いもので間に合わせる方がいいかも。
 今日も暑い。昨日よりも最高気温は高く、今年最高かも知れない。40度近いのかも。特にチェンライは、外を歩くのがいやになるほどの暑さ。車のボンネットの上で「玉子焼き」ができそう。

「キン」、散髪 2005年04月23日
 雑種のプードル(?)、「キン」、半年以上、毛を切ってやってなく、毛玉が一杯で不衛生なため、犬の「トリミング」屋に連れて行って刈ってもらう。なれないため、随分てこずったが、そのうちおとなしくなり無事終了。250バーツ也。
 ケイとノンカン、やっと、携帯、手に入れる。
メチャンで同一機種の中古があり、購入。2700バーツ x 2= 5400バーツ。
同一機種の中古が出回っているということは、欠陥機種の可能性あり。ひとつ違いではあっても、双子みたいなもので、ノンカンだけというわけには行かない。(実際に双子と間違えられたこともなんかいかある)
 中学生は「携帯電話」禁止ということになっていて、おおっぴらには学校へは持っていけないのだが、持ち物検査の日には、靴下の中に隠すのだそうだ。万一、見つかれば、取り上げられて、保護者が呼び出されて、お目玉頂戴した後、返してもらえるとのこと。 
最近の子供は、中学生でも、3人に一人くらいの割合で、携帯を持っているらしい。全国統計では、2200万台以上というから、ほぼ、二人に一人、つまりは、老人と子供を除くと、一人1台にまで普及したらしい。 やだね、携帯電話の世界。仕事がら持たされた事はあったが、自ら購入したことは無い。電話というのは、そもそも相手の現在おかれている状況を無視して呼びかけてくるもので、それに値する情報でも無いかぎり、別の手段でコミュニケーションできないものだろうか。電話されて、腹の立つことが多いのは、やっぱり、「年代もの」のせいかもしれないが・・・。
 今日も暑い。このところ天気予報はずれが多い。
ピックアップの車検を頼んでいたところから、完了のステッカーを受けとる。

通夜に出席 2005年04月24日
 暑いさなか、昼過ぎに材木を買いに行く。
最近、また、ガラクタが増えたようで、あちこち、どこでも物置状態。
家の中、3ヶ所に、物置棚を作ることに。
 アルミの既製品を通りで見かけて、価格を調べてみたら、高さ2m、巾3m程度のもので、10000バーツ以上近くもするので、材料を材木やで買ってきて自作することに。
2X3インチ(マイ・ソン・サムという)の板(?)、50cm(ソクという)あたり、15バーツ。だいぶ値上がりしたような気がする。1X2インチで充分だと思うが、こちらにはそんな規格がなく、手に入らない。しめて、2mほどのもの、50本購入。3000バーツ。
 南タイ産の材木だそうだ。今では、外国産(マレーシアなど)のものは、高くて儲けが出ないとのこと。最近は、国内の木も切れるようになったらしい。ただ、こちらの木は、めっぽう硬くて工作が大変なのが気にかかる。針葉樹のように、ほどほどに硬くて作業のしやすい木は手に入らない。鋸の歯が、折れないまでも直ぐに磨耗してしまいそうなほど硬い。「鉄木(てつぼく)」とはよく言ったものだ。

 夜、タウィの奥さん、テンの義理の姉に当たる女性のお通夜に、家中で出かける。
我が家から、20kmほど東の、隣郡の「サンタン・ルアン村」。
 義理のある人も多いのか、それとも、遠縁に当たる人が多いのかは、定かではないが、ピックアップなど、4台に満載で、50人以上の参列者が、同行した。
 享年27才。お父さんの兄弟には、県会議員や警察官などいる裕福な家庭の一人娘だそうだ。「結婚」して、間がないのか、子供はまだいない。籍もまだ入れてないのか、棺に書かれた肩書きは「ナンサオ(〜嬢)」だった。参列者には若い人が多かった。
 十日ほど前、病院で抜歯した3日後、「自警団(タムルアット・バーン)」のチアーリーダー訓練に参加しているとき、意識不明になったらしい。抜歯のせいで、「神経(サイ・センパサート)」が、おかしくなったとのことだが、本当のところ、抜歯と関係があるのかどうか疑問。想像だが「くも膜下出血」かなにか、脳血管障害のような気がする。
 自警団の制服姿の遺影が、棺の前に飾られていた。若い女性の葬儀ということで、生い立ちの写真集などが、イラスト入りで家の外の壁に貼られていた。
 ここでも、お通夜の振る舞いに「酒」が出されていた。振る舞い料理は、中華かゆ「チョーク」だった。10時過ぎ、おいとまする。帰り、夜道で道を間違え、随分遠回りをしてしまう。
 明日の「火葬式」は、炎天下のため出席しない予定。

離婚してから、バンコクで働いている「ラー(ケイの実母)」が帰省していて、ケイの妹のキックとプッキーが泊まりに行っていたが、戻ってきた。新年は、バスの切符がとれなかったとかで、19日頃に帰って来たらしい。

暑い暑い、みんな暑い! 2005年04月25日
 午前中、整理棚作り。2ヶ所分完成。雑な作業で、木さえ硬くなければ、直ぐに完成するのだが、7.5mm(3フン)のドリルのビットから、煙がもくもく上がるほど木が硬い。垂直に穴を開けるなど、至難の業で、組み立てるのも大苦労。
 今日も暑い。
子供たち、午後から、チャムトーンの灌漑用水で水浴び。
猫も犬と同じように、口あけて、舌を出してハアハア。猫がやると変な感じ。
暑い暑い、ほんとに暑い。みんな暑いのだ。
それでも、池の中のあずまやのベンチは、風があっていくらかはしのぎやすい。

チャムトーンの柵のネット補修 2005年04月26日
 一昨日の夜、「野火」の延焼で焼けてしまったネットを、家族総出で補修。
犬、猫、鶏などの出入りを防ぐため、柵には、バリケードのほか、ナイロン製のネットをはってある。近くの畑か、山林の下草を燃やすため火をつけたのだろうが・・・。いつもは、野火による延焼をふせぐため、柵の近くの落ち葉などはできるだけ整理するようにしているのだが、あいにく1ヶ所、火の入り口になってしまったところがあり、長さ100m近くのネットと、ネットを張ってあるナイロンロープが焼けてしまった。
 こんなとき、日本だったら、警察が捜査して、賠償ものだと思うが、こちらでは、大体泣き寝入りするしかない。
 午後から、雲が出てきて陽がかげり、いくらか涼しくなったので、昨日の続きの棚作り。組み立ては明日。
 10kmほど北の、ドイトゥン方面でかなりの雷雨があったようだが、このあたりは全く降らず。雷鳴だけ。昨日は南10kmほどのメチャン方面でまとまった雨があったらしいが、ここは快晴、猛暑。むし暑さだけ頂戴。この季節にはよくあることで、そのうちここにも雨があるでしょう。がまんがまん。

 昨日「火葬式」した女性の旦那、つまり、タウィの奥さんの兄貴、今日、「縁切りの儀式」。結婚してまだまがない若い配偶者が亡くなったときには、死んだ人の「霊」がとりつかないように、「縁切り」をするんだそうだ。いかにも、ついこのあいだまで「精霊信仰」だけでやって来た民族らしい。仏教の坊さんが、庶民の葬式を取り仕切るようになって、もしかすると、まだ、100年もたっていないのかもしれない。坊主が、精霊信仰のシャーマンを信じているくらいだから。いいのかね、そんなんで。いいんだろうね、きっと。

棚、3個目完成 2005年04月27日
昨日の続きで、目標の3個目の棚完成。お蔭で、部屋がだいぶ片付いたが、まだまだ。
今日も遠くで雷が鳴ったが、雨降らずじまい。
 「ミ」の子犬(4匹)に続いて、「タン(ノイの亭主)」が近所で1匹、子犬をもらってきてしまった。いい加減にしてよ!「いのしし狩り」用の犬とかで、となりの男が、「パデット郡」から3匹もらってきた子犬のうちの1匹らしい。これで、我が家の犬は、全部で、22匹。数えるのを間違えてしまいそうな数。おまけに、チャムトーンの猫、「ヌン・ニン(イ・パイの子、イ・フォイの孫)」が妊娠しているらしい。猫は今、全部で・・・えーと、家に7匹、チャムトーンに子猫が8匹(イ・フォイの子が3匹、イ・パイの子が5匹)、親猫が6匹、しめて21匹。

履物の整理 2005年04月28日
 昨夜、8時過ぎころから、久方ぶりの雷雨。風ばかり強くて、雨量はたいしたことはなかった。5mmくらいかも。

 20年前、この地にはじめてやって来たころ、子供たちはみんな裸足で歩いていた。日本の親戚から、履き古しの靴をたくさんちょうだいしてきてみんなに配って、たいそう喜ばれた。中には学年や名前などがマジック・インキで書かれているものもあったが、みんなよそ行きにして履いてくれた。
 いま、その頃の話を、子供たちに聞かせても信じてもらえない。隔世の感がある。
 我が家の玄関先や、下駄箱に古くなって使われなくなった履物が山ほどあって、整理することにした。壊れて、そのままでは、履けなくなったものも、たくさんある。かみさんなどは、いつか修理して使うつもりでとっておいたのだと思うが、履物も、随分安く手に入るようになり(普段履きなら、100円以下で買える)、よほどもことがないかぎり補修して使うということもなくなった。
 補修が必要なものは、すべて棄てることにして、古いけれども、何とかはけそうなものは、洗濯して、使ってもらえそうな人を探すことにした。小生が日本で,たまに履いていた靴などの中には、そのままでも使えそうなものもあって、近所の人に差し上げた。
 日本から持ってきた履物は、10足以上あるが、普段この地で使用しているものは、2足だけ。いずれも、当地製である。実際のところ、1年中、この2足で間に合わせてしまっている。皮革製の黒のサンダルとゴム草履(ビーチサンダル)。黒のサンダルがよそ行き。ビーチサンダルが普段履きである。水仕事や土いじりも多く、これが一番である。1足、100円足らずで買える。
 最近は、結婚式や葬式などでも、百姓のおじさんたちでさえ、革靴を履いている人をたまに見かけるが、中には靴下も履かずに靴をはいている人たちもいたりして、苦笑してしまう。こちらの結婚式などでは、履物を脱がなければならないことも多く、その点スリッパは便利である。暑さで、足がむれることもないし。

 余談だが、合成ゴムの靴底というのは、20年あまりで、経年劣化するもののようである。いつぞや、永いこと使っていなかった革靴を試しに履いてみたら、2,300mほど歩いただけで、靴底が磨耗してしまい、足の裏が丸見えになり、裸足状態になってしまった。ちょっとばかり愛着のあった靴なので、出先で靴底を張り替えてもらった。  また、今日整理していて、出てきたのだが、やはり、20年あまり前、会社員時代、野球部で作ったスパイク。イボイボのついた合成ゴムの底が、ちょっとつかむとチーズのようにボロボロとかけてくるほどにもろくなっていた。数回ほどしか使ってないもので、サッカー競技で使うから欲しいという人にあげることにした。底を張り替えれば、新品に近い。役に立ててもらえる人がいて、棄てないでよかったと思う。
 昨日から、4日間、恒例の町内サッカー・リーグ戦が始まり、姪の「ノイ」は、わが村の婦人部の選手で、野良仕事も重なって、たいへんらしい。

部屋の清掃 2005年04月29日
 金網製の台所用の食器棚を3個買ってきて、やっと部屋がすっきりしてきた。
どうしてこんなにと思われるほど。いろんな道具類が多い。引き出しに収納してしまうと使うときに、さがさなければならないが、これだと位置も一目瞭然で便利だ。
 ケサリンと娘たち二人が手伝ってくれて、なんとなく、無理やり片付けさせられた感じでもあるが。
 天気予報の雷雨は、はずれ。
最高気温は32度くらいかも。昨夜の星空は、きれいだった。
さて、今夜はどうかな。

養魚池の魚とり 2005年04月30日
 早朝5時過ぎから、ポンプ2台で排水。今回は、前々から、すこしずつ水を抜いていたので、10時前から池の魚を取り込むことができた。盗難防止にまわりを柵で囲っていたことなどもあり、「豊漁」。200キロを超す獲物だった。魚の種類は、「水族館」並みで、10種類以上。パ・ナイ(鯉)、パ・ニン(テラピア)、パ・ソイ(フナの一種?)、パ・ノンチャン、パ・ピア、パ・ドゥック、パ・リム(雷魚の一種)、パ・シャラメット(ピラニア)、パ・タピアン、パ・ブー(カジカの一種・写真)、パ・ドゥット、パ・カン(雷魚の一種)、パ・サデット、パ・シャラーク、パ・ファー(スッポン)、パ・サワイ、パ・タプチム(赤いテラピアの一種)などなど。
 養魚池の魚を取るのも、また結構楽しいもので、近所の若者もおおぜい手伝いに来てくれて、総勢20人ほどで、お祭り騒ぎ。
 養魚池の水を抜いたのを、どこかで聞きつけて、早速買いにくる人もいたが、大半は近くの部落に行商。生きのいい魚は、生簀にいれて、少しずつ販売。総額では、5000バーツくらいにはなりそう。ただし、分配先も多くて、手元に残るのはせいぜい2000バーツくらいかもしれない。



inserted by FC2 system